湯を細く、ゆっくりと注いだ瞬間、コーヒーの粉が生き物のように盛り上がった。これほど豆が膨らむのを見たことがなかった。ドリップという行為を、ただのルーティンだと思っていた自分が少し恥ずかしくなるほどの、静かな驚きだった。
サイフォンとはまた違うコク。二杯目は一杯目よりもまろやかだった。豆の量が少し違ったのか、湯の温度か、はたまた自分の集中の度合いか。同じ豆を同じ手で挽いても、毎日味が変わる。それが面白くてならない。
ミルのハンドルを回しながら数えてみたら、二人分の豆を挽くのに七百回転かかった。七百回。その単調な繰り返しの中に、なぜだか落ち着きがある。思考が鎮まり、手だけが動いている。現代人がわざわざお金を払って手に入れようとするマインドフルネスとやらが、このハンドルの中にすでにあった。
朝の散歩で会う貞子さんが笑いながら言っていた。「金持ちが最後に選ぶ趣味は喫茶店だ」と。確かに一理ある。しかし自分はやらない。喫茶店を開けば、この時間が他人のものになる。ゆっくりとした朝は、誰かに提供するためではなく、ただ自分のためにある。それで十分だ。
DROPBOXの整理をしながら、2016年以前の写真が次々と現れた。懐かしいというより、遠い他人の記録を見るような感覚。人は気づかぬうちにずいぶん遠くまで来るものだ。整理しながら、今の自分を余計なものから切り離していく感覚があった。古いアカウント、古いドメイン、古い習慣。それぞれに「お疲れ様でした」と言って、手放していく。
雨の金曜日は、外出をやめて仕事と昼寝に費やした。予定がない一日というのは、怠惰ではなく贅沢だと今は思う。ミルの手入れをして、レスターの温もりを隣に感じながら、それで一日が完結した。夜中にトイレへ行けば寝床の真ん中で仰向けになって大の字で眠っているこの犬を、邪魔だとは思えない。愛おしいという感情だけが、静かにそこにある。
晴れた朝、生豆本舗へ車を走らせた。グアテマラのピーベリーと、店長に勧められたルワンダのカリシンビ。標高二千メートル近い山の斜面で育った豆が、今は自分の手の中にある。ローストするのが楽しみだ、と思う気持ちは、子供の頃に遠足の前夜に感じたあの感覚に少し似ている。
夕食は茄子と南瓜の甘酢照り焼き。スーパーで艶やかな茄子を見つけた、それだけが理由だ。献立を先に決めてから買い物へ行くのではなく、素材が先に語りかけてくる。料理も、コーヒーも、今の自分の暮らしはそういう順序でできている。
派手さはない。記念すべき出来事もない。それでも、この一週間の記録を振り返ると、確かに満ちている何かがある。豆が膨らむように、静かな日々の中に、生きることの密度が詰まっている。